13日の夜中、病院からの連絡で病室に駆けつけると、入院1年になる父の呼吸は既に止まっていました。齢91歳。父らしい静かな終局でした。
大正生まれの兵隊経験者である父は、私にとってどんな父親だったのか、そしてどんな人間像だったのか。簡単にまとめておきます。
- 【生涯】
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- 大正13年、埼玉県児玉郡神泉村の農家の次男として生まれ、育つ。
- 尋常小学校卒業後、隣町の鋳物木型屋に丁稚奉公に入り、木工の腕を磨く。
- 兵隊に取られるものの、戦地に出ないまま長崎の平戸で終戦を迎え無事復員(疲れ切った元兵隊を載せた復員列車が、原爆投下後の広島を通過する時の話は、何度聞いても息を飲んだ)。
- 親戚の伝手で母と結婚し、東京は荒川区に居を構え、建具職人として一本立ち。
- 一女一男を設け、自宅を二度建設するなど、堅実な家庭生活と職業人生を歩む。
- 75歳(?)にして約50年続けた職人を引退。その後は好きな木工などして過ごす。
- 80代半ばから足腰の弱った母の介護に奮闘。自らも腰痛で長期入院を経験。
- 90歳で脳内出血を起こし再び入院。治療の甲斐なく徐々に衰え91歳で永眠。
- 【思い出】
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- 人格的には寡黙、温厚、器用、マメ、アイデアマン、口下手、社交下手。
- まず理屈で考え、情は後回しのところが、直情的な母とは正反対だった。
- 若い頃は歌が上手かったらしく、バイオリンを習ったことがあるとの噂も。
- 50歳前後まではヘビースモーカー。酒は全くの下戸。甘酒1杯で真っ赤に。
- 趣味は、木工作、読書、釣り、庭いじり・・・、昔の人らしいものばかり
- 母と共に出不精で、自らは遠出しない割に、温泉などに連れて行くと喜んだ。
- 50代にメニエル病を発症し、突発的、発作的な目眩と難聴に生涯苦しんだ。
- 生まれ育った村の話、戦時中の部隊の話他のいわゆる昔話を嫌というほど聞かされた。
- とにかく手先が器用で、夏休みの宿題はほとんど父の作品を提出していた。
- 【語録】
- 『俺は口下手だから世辞は言えねぇし駆け引きもできねぇ。だから正直なとこを話すしかねぇだろう』
借地権の更新について、地元の名家である地主に交渉しに行く時、御供をした18歳の私に向かって。この言葉は、後に筆者の人生訓となる。 - 『職人はいつ何時、収入が途絶えるかもしんねぇ。家計には一月の余裕を持て』
仕事から帰宅して、まさに体で稼いだ現金をポケットからおもむろに取り出し、受け取る母に向かって。 - 『魚は、頭から骨まで食うもんだ。迷い箸はするもんじゃねぇ』
魚の硬い骨が苦手で、身だけ食べる私を見て。箸の使い方にも厳しかった。 - 『フン、くだらねぇ』
テレビで放映されるほとんどの娯楽番組に対する感想(落語、プロレス、洋画、時代劇、刑事物を除く)。
生涯を一職人で終えた父は、世間一般で言う「名を残す」、「人の上に立つ」、「人から慕われる」というような地位、立場とは無縁でしたが、一方では、仕事を通して十二分に世の中の役に立ち、また家族の中、家庭内そして私にとっては、それら全てを成し遂げた人物であり父親でした。
さて、告別式の喪主挨拶を考えるとしますか。