今回の内容はタイトルのとおりです。
少しだけ解説しておくと、昭和31年生まれの私め、幼年期から成長期がちょうど昭和の高度成長期と重なっていましてね。
振り返れば(オォ〜、これぞ昭和の原風景じゃ!)という思い出がたくさんあるわけで、それらセピア色の記憶を書き連ねれば、当時がどんな時代で子供が育つ環境、背景に何があったのかを浮き彫りに出来るだろうと考えた次第です。
それにしても昭和の高度成長期とは、何かを一生懸命頑張れば必ずや何らかの形で報われる、一歩譲って誰もが将来への希望を持っている、今日より明日、今年より来年、そういう時代でした。
だからこそその時代を生きた大多数の日本人は、額に汗し身を粉にして無我夢中で働いたのだと思います。
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1.炭の掘り炬燵
- 思い起こせばその当時、私が生まれ育った小さな平屋の家(以下、「実家」という)の中の暖房といえば、火鉢と掘り炬燵しかなかった。冬になれば手足の霜焼けは当たり前だった。
- 熾した炭(すみ)を熱源とする火鉢と炬燵だから、冬の間は近所の炭屋から木炭(きずみ)を炭俵で買っていた。ポリタンクで灯油を買う感覚である。
- 練炭や豆炭も出回ってはいたが、高級品だったのか実家では使っていなかった。友達の家に行って練炭火鉢を見たときには内心、(ここん家は金持ちなんだ〜)と思ったものだ。
- ちなみに炭俵をバラして中の炭を取り出してしまうと、菰(こも)に使われていた山吹の茎がたくさん残った。その茎から白くてフカフカした芯を取り出して、姉や友達と山吹鉄砲でよく遊んだものだ。
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2.女湯には髪洗い料金と大きな桶と薬湯があった
- 実家には内風呂がなかったので、歩いて1分くらいの古い銭湯に通っていた。恥ずかしながら私は、幼稚園頃まで母親と女湯に入っていたのだ。
- 女性は、入場時に番台に自己申告して「髪洗い料金」なるものを払い、女湯にしか置いてない大ぶりの桶を使って髪を洗った。今でこそあって当たり前のシャワーは、当時の銭湯の洗い場にはなかった。
- その銭湯が改築され、洗い場にシャワーが設けられたのを見たときはびっくりしたし、使い方がよく分からなくて戸惑ったような気がする。
- それと、女湯にだけコーヒーのような色をした薬湯(くすりゆ)の湯船があった。煎じ薬のようなものを入れた布袋を蛇口から吊るして湯の中に浸してあり、文字通り漢方薬的な強い匂いがした。普通の湯船より温度が低かったので私は好きでよく入った。
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3.テレビ以前はラジオが団欒の主役だった
- 木製の箱に入った昔の真空管ラジオ。かなり大きなものだったそれは、実家では襖の開け放された押入れの一画に鎮座していた。団欒の場はその正面で、夕食の時に父がスイッチを入れるのが決まりだった。
- 当時の放送で印象に残っているのは、「♪ジャンジャー、ジャンジャカジャッジャー、ジャジャジャジャジャン!」ご存知軍艦マーチである。まだ終戦後十数年しか経っていなかった頃だから、おそらく戦記もののような番組のテーマ曲だったのだろう。それが私のラジオ原体験となっている。
- ちなみにラジオの前面パネルには、光のサインによる選局用の「マジックアイ」なるものが付いていて、局合わせに重宝した。昨今それを見かけることはないが、今でもどこかで使われているのだろうか。
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4.テレビがやって来た
- 幼稚園生のとき、実家にテレビが来た。スイッチを入れてから絵が出るまでしばらくかかるブラウン管式の白黒テレビで、チャンネルの切替はガチャンガチャンのダイヤル式だった。また、使われていた真空管が原因で頻繁に故障する代物だった。
- 画像が出なくなった時は、近所の電気屋のオッサンを呼んだ。オッサンは、裏蓋を開けて真空管を取り替え、復活した画面を確認するとササっと帰って行った。きっと忙しかったのだろう。何度かその場面を見て、初めて「インテリ」と呼ばれる人、「学のある」人を意識したと思う。
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5.家に電話が引けた
- たぶん、小学校低学年の時である。申し込んでからずいぶん長い間待った記憶があり、実際に引けるまで数年かかったと思う。
- 取り付けられたのはもちろんダイヤル式の黒電話だった。遠くの人と話ができる便利な機械が来たことで、我が家が大きく前に踏み出した気がして誇らしかった。小学校の名簿に記載された電話番号が(呼)でなくなったことも嬉しく、また少しこそばゆい気もした。
- 考えてみれば、当時から半世紀以上経っても電話番号は1桁増えただけで基本的に変わっていないってすごいと思う。頭が良くて先見の明がある人たちが苦労して作ったのだろう。
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6.トイレが水洗になった
- (本項は、R潔癖指定につき精読注意です!)
- 長年、慣れ親しんだ「ボットン、お釣り式」の汲み取り便所が、何の前触れもなく突然、和式の水洗トイレになった。
- 今思えば、常に強烈な臭気を放ち、夏場はアンモニアで目が痛く、下を覗けば貯蔵物の表面が○○でゾワゾワ蠢き、常に転落の危険性と隣り合わせの小部屋が家の中、それも台所の脇にあったことが信じがたい。
- それが突如として清潔な未来のトイレに変わった時の気持ちは残念ながら覚えていないが、洗浄時の大きな流水音が怖かったことと、自分の大便をよく観察するようになったこと、それと、愛煙家だった父親が大を済ませた直後の眩暈のするような空気環境は、今でも強烈に覚えている。
- ちなみに水洗便所は(和式限定だが)、意外なことに汲み取り便所より人糞との距離が近かったのである。
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7.通っていた小学校が鉄筋コンクリート造に建替えられた
- 小学1年生の時に、通っていた学校の木造校舎が鉄筋コンクリート造に建替えられた。
- 子供が多かった時代で、1校6学年で約1200人の生徒が在籍していたから工事中は使える教室が減った。そのため授業時間が若干減らされ、午前組と午後組に分かれて登校したりした。
- また工事中の一時期は、授業中の教室のすぐ脇でディーゼル式の杭打ち機が「ドッカーン、ドッカーン」と凄まじい轟音と振動を発したが、誰も文句は言うものは居なかった。
- 当時の日本人がその手のことに寛容だったのは、とにかく前に進めば良くなる、良いことが待っている、と確信していたからに違いない。
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8.勉強部屋が出来た
- 実家では、私が物心つく前に鶏卵を取るためニワトリを飼っていたらしい。
- 今となっては金網で仕切られた汚い物置の映像しか浮かばないが、あるとき両親はその鳥小屋を取り壊して姉と私共用の子供部屋を増築してくれた。その部屋を「勉強部屋」として覚えているのは、尋常小学校卒の両親の子供の教育にかける思いが擦り込まれたからだろう。実際に勉強した記憶は、あまりないのだが。
- 木造でトタン板葺き屋根のその部屋は、強い雨が降ろうものなら天井から恐怖を感じるほどの轟音が響いた。それでも、勉強机と二段ベッドという自分だけのスペースができたことがとても嬉しかったのを覚えている。
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9.定期預金のビックリするような利率
- 親に促されて、お年玉や親類縁者からもらった小遣いなどを貯金箱に貯め、年末になるとそれを開けて銀行の定期預金に預けるのが毎年の慣例だった。
- それを何に使ったかは全く覚えていないが、お陰でお金は無闇に使わないで貯めることが大事という価値観が身についたと思う。両親には感謝することがたくさんある。
- ちなみに当時の定期預金の利率は年7〜8%ほどで、10年間複利で預けると元金の約2倍になった。その時代を知る者としては、今の利率には「ガキの使いじゃねんだ!」と強く言いたい。
- まあ、経済のことは未だに何も知らないんだが。
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10. ’64/10/10の青空に五輪雲が映えた
- 五輪雲を見たのは小学2年生の時で、実際にこの目で見た話を若い人にすると結構驚かれる。
- 巷間言われる見事に晴れ上がった青空に、飛行機雲でゆっくりと五輪の輪が描かれる光景は、間違えなく感動的なものだった。
- それを狭い路地から家々の屋根越しに眺めたのは善良、純粋なる当時の人々、夢を持った人々だった。
- その中で口を開けて空を見上げる私の脇を走り抜けて行ったのは、荷台に材木を積んで現場に向かうダイハツオート三輪だったかもしれない。
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11.学校で東京五輪のテレビ放映を見せてくれた
- 視聴覚教室という厳しい名前は、もはや過去のものだろう。
- 単にテレビが置いてあり暗幕で暗くなるだけの教室だったが、特別扱いされていたその部屋で、開催期間中は授業に代えて何度か日本選手が出る競技の中継を見せてくれた。体操とかバレーボールだっただろうか。
- 競技の内容は全く覚えていないが、テレビ受像機が高い台の上に鎮座し、観音扉とビロードのカーテンに守られていたのが印象深い。
- その当時テレビは、恭しく奉り大切すべき貴重品、高級品で、大げさに言えばある意味、神格を備えたもののように扱われていた。
12.まとめ
……まだまだ書けそうですがこれくらいにしておきます。
振り返れば振り返るほどいろいろな場面や光景が思い出され、今ではほとんど見かけなくなったものや使われなくなった言葉(炭俵、練炭、山吹鉄砲、マジックアイ、真空管、黒電話、呼出し、オート三輪等々)が多いことにも驚きました。
やはり昭和の高度成長期とは、いろいろな意味ですごい時代だったんだな〜と改めて思いました。そんな時代に子供から青年へと成長し、戦争のない自由な時代に年を重ねられている私たちは、とても幸せな世代なのだと思います。
戦後の荒廃からたった16年で夢の超特急新幹線や高速道路を造り、果ては世界中から人を呼んでオリンピックまで開催してしまった日本人。
高齢化は進み人口は減少傾向、経済的にも新興国に追い上げられ今や完全に自信を失っている、などと巷間言われますがなんのなんの。
勤勉さや道徳心なども含めて、潜在的な力を秘めている我々日本人です。方向さえ間違わずに働けば、この先も世界水準以上の国を維持して行けることは間違えないでしょう。