野沢通りと鴻之巣橋


先日,2016年の東京オリンピック招致に関連するエントリーを書きましたが,今を遡ること66年前の昭和15年に東京で夏季オリンピックを開く計画がありました。
ウィキペディア:東京オリンピック(1940年)

結局のところ日中戦争の激化により開催は中止され,幻のオリンピックとなってしまいましたが,昭和11年7月の開催決定から昭和13年に開催権が返上されるまでの間,世紀のイベントに向けて一部の競技施設や街路整備の工事は行われていました。メイン会場になる予定だったのは世田谷区の駒沢ゴルフ場(当時の呼称,現在の駒沢オリンピック公園)で,そのほか芝浦埋立地の自転車競技場,戸田のボートコースは一部が完成していたそうです。

実は私の毎日の通勤コースにこの当時を偲ばせるものがあります。東京の中心部から駒沢オリンピック公園に向けて整備された通称「野沢通り」とその切り通しに架かる陸橋「鴻之巣橋」(写真)で橋の欄干には昭和13年の文字が刻まれています。そのあたり一帯は「東山」という町名からもわかるように目黒川から急にせり上がる山になっていて,「野沢通り」は都心部とメイン会場を結ぶという目的からこの山を2つに切り裂いて一直線に通されました。「鴻之巣橋」は切り通しで分断される集落に相互の交通手段を残すために掛けられた橋と想像され,今でもこの一帯の住民には無くてはならないものになっています。もっとも「野沢通り」自体が山のど真ん中を切り崩して無理やり通したような道路ですから,当時でもそれくらいの住民対策は必要だったのでしょう。

仮に2016年のオリンピック開催地が日本のどこかの都市になるとしたら,1964年の東京オリンピックほど盛り上がらなくてもいいから,関連施設の建設が土建屋への利権誘導だと批判されてもいいから,多少の環境破壊も許すから,くれぐれも戦争の激化で中止!なんて事態にならないようにしないとな~,などと暑さでボーっとした頭で考えながら「鴻之巣橋」を渡る今日この頃なのです。

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