最近、仏教の本をよく読むので、それに関連して思うところを書いてみました。
筆者が生まれ育ったのは、神社の御札と仏壇が一つの部屋に共存し、初詣は近所の氏神様に行き、盆には仏壇に茄子の馬を供え、クリスマスは一応世間並みに浮かれておくかというような、特定の宗教を熱心に信仰する家又は親の元ではない至極普通の家庭でした。
一方個人的には、神社仏閣や墓地が若いころからなんとなく好きで、興味の向くままご朱印を集めたり、四国巡礼を進めたりはしてきましたがそれはそれ。
やはり宗教的なバックグラウンドは全くない、というのが正直なところです。
ちなみに、皆さんにもなんとなく好きは好きだけどその理由はうまく説明できない、そんなものがありますよね?
エヘン、あるはずです!
・・・オホン、失礼しました。
それほど取り立てて宗教全般あるいは特定の宗教、宗派に縁や興味があったわけでもない筆者が、気が付けばここ2~3年は仏教関係の本を漁るように読んだり、お寺さんや仏教関係の団体が主催するセミナーに参加するようになっていました。
◆サテライトテンプル|築地本願寺GINZAサロン
◆公益財団法人仏教伝道協会「一から学ぶ日本の仏教」
これって何なんでしょう。自分でも本当に不思議な気がしています。
誤解のないように一応お断りしておきますが・・・
当事者以外には忌み嫌われ、当事者自身はその事実に気づかず又は気づかないふりをしながら、一見幸せそうなオーラを立ち上らせる人たちが集う○○学会やホニャララ教のような、いわゆる新興宗教に勧誘されたり、自らそちら方面に進もうとしているのではありません。それだけは断言しておきます。
さて、自分でも訳が分からけど、それならそれで動機づけを整理してみたいと思います。
- きっかけは、四国巡礼を本格化するに当たりスタンプラリーと勘違いしないように一応仏教の触りだけでも勉強しておくかと考えたのが始まり、だと思う
- いざ踏み込んでみると、子供の頃から今の今まで家庭でも学校でも身の回りでも、宗教について教えられたりきちんと勉強したことが一度もなかった
- そのためかどうか確信は持てないが、心のどこかに抵抗なくスッと入ってくるものがあった
- 例えて言うならば、砂漠に降った雨がすぐに地面に染み込むみたいな?
- そのあたりをもっと潤したらなんかいいんじゃない?みたいおな感じで更に知識欲が膨らむ
- そして、あちらこちら手の届く範囲で闇雲に手を出しながら現在に至る
・・・そんなところが現状です。
ところで「宗教」と聞くと一般には、熱心な勧誘、入信、寄進、盲信、狂信、離脱不能、政治絡み、選挙、オウム、昨今はテロやISなどのマイナスイメージ、延いては偏見、そんなものを日本人は少なからずイメージしがちだと思いませんか。
戦前のことはよく知りませんが、現行憲法で思想信条の自由が謳われているからか小中学校で宗教関連の授業は全然なくて、むしろタブーのような気がするし、親からきちんと教わることもまずありません。
そもそも宗教に関して客観的で正確な知識や情報を持っていないことが、なんとなく敬遠しがち、一歩引きがちになる原因とも考えられますね。
おそらく筆者もその口です。
最近、お寺の和尚さんと話したときに、「我々仏教界もいけないんですがね…」とこぼす方がおられました。
そのココロは・・・
大乗仏教系である日本の寺の多くは、「葬式仏教」と揶揄されるように死そのものと死んだ人の面倒を見ることに執心してきた。
人が人らしく生きる道を説いた初期の仏教、敢えて言えば宗教というものの本質に照らして現在の日本の仏教は、だいぶ違う方向に来てしまった。
それを是正する努力も足りないし、もっと生きている人間のために働かねば・・・
・・・そんな意味に筆者は受け取っています。
それでも筆者の個人的経験として、父母の葬儀の時に、告別式の文字通りMCである和尚様が遺族に寄り添ってくださり、上げていただいたお経や法話で気持ちの区切りをつけることができ、どれだけ心が休まったことか。
それもまた仏教の深遠、広大な世界の一側面であり、手を差し伸べてもらった一人の人間にとっては、大いに意味のあることだと思いました(銭金は別次元の話なので、ここで触れるつもりはありません)。
まだまだ胸を張って仏教を勉強中と言えるような段階ではありませんが、おしなべて宗教というものが、現世を必死に生きる人間のためにあるもので、人生を生き易くして最後まで平穏に全うさせてくれる、もしくはその手助けをしてくれるものだったらちょっと良くない?、そんなふうに少しづつ思えるようになってきています。
・・・モチベーションや、なぜ仏教なのか?などなどを整理したいと思いましたが、何やらとりとめのない話になってしまいました。
続きは、また今度。