今日は、政治家や政権に関するマスコミの報道姿勢について思うところを書いてみます。
結論は二つ。
一つ目はこれ。
◆ 一般庶民が政治家や政権を愚鈍や悪者とイメージしがちなのは、既存のマスコミが流す批判や揶揄、揚げ足取り(※)に偏った報道に長年晒されてきた結果だ。
(※ 以下、長ったらしいので「批判等」と適宜略します)
古くからある新聞、テレビ、週刊誌のようなマスメディア。
このカテゴリーのメディア(以下、既存メディアと言います)が政治家、政権、施策などの実績や成功事例を好意的な視線で取り上げるのは非常に稀です。
少なくとも筆者はそう感じています。
仮に言及があっても、基本的に狭量で恣意的な報道姿勢、取材姿勢を薄めようとするがための添えもの、ごく小さな軽い扱いであることがほとんどです。
ネットが普及した現在、彼らがそうしたスタンスを変えないのが不思議でなりません。
そんなことを言うと、権力を監視、牽制し国民の知る権利を守るのが報道やジャーナリストの役割という大義のエコーが返って来そうですが、そこに異議を唱えるつもりはないし、むしろ権力が間違った方向、危ない方向に行かないようにするため一生懸命やっていただきたい。
その一方で、自分たちが固く信じ、しばしば盾にしようとするその大義を、錦の御旗のように掲げるのはもうそろそろ止めてもらいたいとも思っています。
なぜなら、万人がネットを通じて多彩な情報を得られるようになった今、多くの(全てとか大多数とは言いません)一般庶民が、既存メディアが発信する情報、特に政治関係のそれは著しくバランスを欠き、批判等に偏っていることを知りました。
また最近は、それら偏向した既存メディアの報道がいつの間にかバイアスとして自分たちの中に刷り込まれ、逆メガホンを顔の前に置いて小さな穴から世の中を見ていたことに気付き始めているからです。
一例として、政府が今般のコロナ対策緊急事態宣言発出の検討を始めたことを受け、今朝(1/5)の朝日新聞デジタルは、こんな見出しでした。
小池氏に「いいようにやられ」宣言へ 首相、後手の末に
有料記事なので読んだのは冒頭だけですが、以降は推して知るべし。見出しが精度の高い要約となっていることは想像に難くありません。
こうした批判等に力点をおいた報道でも、それを適時適切に使う分には政治家や政権、施策に対する強い鉄槌になるでしょう。
しかしそれが目的化し、常套手段として延々使い続けるとどうなるのか。
知らされる側の一般庶民は……
> やはりそうなのか。
> 政治家や政権がやることは常に的外れで後手後手だ。その裏では大企業やタニマチの高額所得者(最近は上級国民というらしい)を利することばかりやっている。
> 強きを助け弱きを挫くような税金の集め方、使い方ばかりしやがって、いつも割りを食うのは末席に置かれた我々底辺の国民だ。
> そのうえ能面の下で戦争を賛美し戦前の体制に戻そうと躍起になっていて、それを指摘されてもノラリクラリ逃げ回る。
> そんなやつらはそもそも信用できない。誰がやっても政治ってやつは変わらん!
……といった非建設的なマイナス思考に陥入ってしまい、それが一般人の意見の大きな勢力を占め、やがては世間一般に言われる「世論」、それも批判に偏ったそれを形成することになると筆者は感じています。
そのような認識の中では、「国」というものが長年暮らす自分たちの大事な居場所、自分と愛する人、大切な人を守ってくれるシェルターであるにも拘らず、自ら大切にしよう、守ろう、より良いものにしようといった前向きな発想には決してなりません。
このあたりは、「国」を「家庭」に置き換えて考えれば誰でも分かる自明の理屈です。
それだけメディアというものは一般社会に対して影響力があり強い力を持つものなのです。
極論を言うと、1つ目の結論や前述の認識、常に低い選挙の投票率、政治への無関心は、既存のメディアが延々と流してきた偏向した報道によって作られた幻のような社会構造と言っても過言ではありません。
そんな実態のない世論や社会構造の中で(本当にそうなの?、新聞に書いてあるし…、やはりね!)と揺れ動いてしまうのが一般人の心情ではないでしょうか。
もう一つ、例を挙げてみます。
AMラジオ好きの筆者が、最近聴くのをやめた番組があります。
◆ TBSラジオ「森本毅郎 スタンバイ!」
何よりキャスターのM氏はすでにご高齢(1939生)ですから、ご自分の足で取材しているとは思えません。
新聞紙面の記事などにご自分なりのコメントを添えるパターンが多く、それが氏なりの取材〜意見表明と言えば言えるでしょう。
ただし、発せられるコメントには批判と揶揄、揚げ足取りが圧倒的に多いと感じます。それがご自身の主張なのか、制作担当者や局の方針なのかは分かりません。
そこに胸がすく、一般庶民が言いたいことを公共の電波に載せて言ってくれると感じる聴取者もいることはいるでしょう。
でも筆者にとってそれが不快になり、報道の目的や価値を大きく履き違えていると感じ嫌気が差してリタイアしました。
今では、長年聴いていたことを後悔さえしています。
AMラジオは、先述の既存メディアに入れてもおかしくない、とても古いメディアです。
……が、現状は幸か不幸か局、番組、キャスターごとに玉石混交の状況でして、筆者には幸いなことに乗り換えるに値する番組が同じ時間帯にありました。
◆ ニッポン放送「飯田浩司のOK!Cozy up!」
実は本稿のタイトルは、Cozy up!のメインキャスターI氏が昨年、上梓された本にインスパイアされて付けたものです。
局アナであるキャスターI氏の報道姿勢はこうです。
まず現場主義。
民法ラジオ局の一アナウンサーにもかかわらず自ら現場に足を運び、現実に起きていることを自分で取材する。
そして是々非々のスタンスで、政治家でも政権でも批判すべきところには鋭く切り込み、良いところは評価する。
だからかどうか、彼は同業者から「権力寄り」と言われることがあると自分で言っています。
でも、私の感覚では権力の監視や牽制の役割を放棄しているようには見えない(聴こえない)し、ラジオというメディアからなるべく公平な視線で政治や社会の動きを伝えようと努力している。
少なくとも筆者は、そう感じるのです。
取材対象にも情報の受け手に対してもフェアな姿勢と、併せて所属する組織から一度も制約をかけられたことがない(自著から引用)という環境にも一筋の光明を見る気がして、先述TBSの番組に代わって聴き始めた次第です
考えてみれば、どんなメディアでも所詮は「人」で成り立っています。
それだけに一人一人の考え方や、その集団、組織のスタンス次第で報道はどうにでも変わってしまうし、時には抗いがたい圧力によって変えざるを得ないこともあるでしょう。
否、報道とは、情報発信のプロが見たもの聴いたことを、社会の不条理や数々の圧力と対峙しながら個々人の調理と味付けで発信するものと言えるかもしれません。
斯様に弱いもの、危ういものだからこそ、どんなメディア、報道であっても一般人の心情と同じく右に左に揺れ動くもの、振れ幅のあるものとの認識は情報の送り手、受け手ともに忘れてはならないと思うのです。
そして、各々のメディアに望みたいのは、素材の風味、食感を消さないバランスの良い調理と味付け…
すなわち、フェアな姿勢で真実を伝えること。
そのように考えたときに、まず権力の批判ありき、良い点の評価は添え物の既存メディアによる報道が、筆者の心の琴線に響くことはもうないだろうと感じるのです。
長くなりました。
二つ目の結論をまとめにしたいと思います。
◆ マスコミだろうがパンピーだろうが、フェアでなければ飯を食う資格はないし、飯が食える信頼は得られない。
実に竜頭蛇尾ですが、今回はそんなところ。
本稿を書きながら政治的な話は苦手なのを改めて認識しました。
ガラじゃありません。当たり前のこと、言い古された理屈を延々書いたような気がします。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
そんな次第で、本稿にコメントをいただいてもお返しできませんのでご了解を。