あぁ〜、令和元年が終わってしまううぅぅ〜
冬の休業初日の今日は、風呂場、洗面所、照明器具の掃除をがんばりました。
先のことは考えたくないけど、明日はベランダ、網戸、玄関周り、窓ガラスをやらねば……
……とは言え、災害の多かった今年は、単純に家の掃除だけがマストという年末を嘆いたりしたらバチが当たるでしょう。
ということで、令和元年12月は短編2本を含め4冊でした。
世間に数多いる性悪男に愛すべき部分を見出し、すがっては弄ばれ騙されることを生きがいにしてきたアラ四十の桜子。そんな彼女の前にとうとう一部の隙もない完璧な性悪男八郎が現れた。
憎悪に燃える桜子の元に集まり懲悪作戦を練る親友たち。八郎を懲らしめる復讐劇の結末はいかに…
起承転結のしっかりした短編。笑わせてもらった。
悪は臼に駆逐され、無言だった同志たちも最後に笑う。こんな落ちがあったとは。見事すぎる大団円だ。
高校生の相川早奈は、大好きなセンパイにフラれた心の痛手を派遣部活員としてフィジカル面から埋めようとするも、なぜか文化祭のミュージカルで主役に担ぎ出される。
脚本と演出は、なんと忘れようとしていたセンパイだったが、いざ練習を始めてみると早奈の心の隙間に主役の「ネズ美」がピタリと嵌り、強気で快活、なにごとにも前向きな女性、そう、センパイの理想とする女性に大変身するのだった。
元々自分のなかった早奈の変身ぶりと、ヨレヨレ失恋女がミュージカルで立ち直って見事に燃え尽きるまでの疾走感がたまらなく爽快だ。この作家は今回が初読だが、ひょっとして稀有な鉱脈に当たったかもしれない(実は、13年前に「永遠の出口
それと、kindleで上記2編の短編を個別に読んで、以前から感じていた短編に関する抵抗感は、単純に「短編集」という一形式への苦手意識だったことに気付いた。目からウロコだった。
過去を見せる力を使って人助けを続ける赤い身体、緑の髪の小鬼。その理由は途中で明かされるが、人鬼と化して転生を繰り返す娘、民を千年の間見守り続ける小鬼の心情が切ない。
やっとのことで民を見つけた小鬼は、そこで力尽きて砂に還ってしまう。人に戻った民は、千年掛けても再び小鬼に逢おうと、果てしない砂の荒野で赤と緑の砂粒を集め続けるのだった。
なぜ「鬼」なのか分からず前半は話に没入できなかったが、テーマが明らかになった後半はジンと来た。二千年の後に人となった小鬼と民の寄り添う姿が思い浮かんで、なんとも言えない暖かい気持ちになる。
著者の仏教本は6冊目で、毎度勉強させていただいたり感化されたりしている。
だから、とてもじゃないが書評など書けないので、備忘として要点だけ書かせていただく。
元々一つのものだった釈迦の創設した仏教は、釈迦の死後百〜二百年後に20以上の部派に分かれた。
それは時間と共に生じた考え方の違うセクトを破僧集団として突き放すことなく、「違う考えを持っていても、儀式や集会を共に行う限りは同じ仲間と見なす」とアショーカ王の時代に当時の仏教界が「破僧」の定義を変えたに起因する。
著者は明言していないが、現代にまで脈々と続くの仏教の寛容さは、このあたりに端を発するものと浅学非才な私は感じる。
釈迦の仏教から大きくかけ離れた大乗仏教が現れた原因については、いまだ多くの学説がある。しかし、部派仏教が突然現れた(ように見える)のと同じで、そこにも「破僧」の定義変更の影響があった。
早く結果が現れたのが部派仏教だとすれば、ゆっくり時間をかけて形をなして行ったのが中国を通じて日本に入ってきた大乗仏教と考えられる。
この説を著者は自身の研究による仮説と言っているが、個人的には限りなく真実に迫った学説と感じる。また、仏教の一番根本の部分をこのように理路整然と、なおかつ平易な言葉使いで説明できる人を私は他に知らない。