今回は、私の出身地、東京都荒川区について少々語りたい。
さて、ここから思い出話になる。
上記は話の枕であり、本稿で一番語りたいのは昔に比べて「寂しくなった我が町」という後ろ向きな話だ(昭和の切り口としては、他稿をご覧ください)。
小学生のころ、自宅近くの小さな商店街「ホニャララ銀座」には、八百屋、魚屋、肉屋、豆腐屋、乾物屋、菓子屋、駄菓子屋、お茶屋、薬屋、洋品店、瀬戸物屋、文房具屋、下駄屋、炭屋などなど、庶民の日常生活には欠かすことのできない個人商店が軒を連ねていた。
並べてみると、今となっては説明に苦労する店舗のなんと多いことか。
夕方になるとそこには洟を垂らしたガキども、もとい良い子達を連れた奥さん連中が買い物かご(死語?)を下げて集まり、それぞれの店屋の人たち(皆がジモティなのでほとんど顔見知り)と賑やかにやり取りをしながら、夕餉のおかずなどを買い求めていた。
そして、週に一度くらいは、(おそらく千葉方面から)新鮮なアサリを商う行商のおじさんがリヤカーでやって来て、独特の口上を聞かせながら量り売り(これも死語!)をしていた。
年末になると恒例の「大安売り」と「福引き」が行われ、ガラポンの音が商店街に響き渡り、「残念6等、マッチ!」、「あぁ〜」なんてため息つくのも予定調和の楽しみだった。
当時の区内、否、都内の商店街はどこも似たような雰囲気だっただろう。
また、少し離れた大きな商店街には、5日、15日、30日に露店の夜店(よみせ)が立った。お祭りのあの賑わいが月に3回やって来ると思ってもらえばいい。
夕食後、人混みの中を親に手を引かれて綿あめやお好み焼き、カルメ焼き、ハッカパイプなどを買ってもらったり、金魚すくいをするのが楽しみだった。
威勢のいいバナナの叩き売りなんかも出ていたっけ。確か「ゴリラ商会」を名乗っていた。
父母は、必ず植木屋の出店を冷やかして、帰りには鉢植えなんかをぶら下げていた。
父の仕事が休みの日には、都内唯一の区立遊園地、歴史ある荒川遊園に連れて行かれ、当時は巨大に見えた観覧車やハツカネズミ(そんな名前の目が回るだけのアトラクション)などで大勢の子供たちと一緒になって一日夢中で遊んだっけ…………
とにかく、記憶の中のわが町は、やたらと賑やかだったのである。
それが昭和40年頃をピークに荒川区の人口は減り続け、はしっこい子どもや人の集まる店はどんどん少なくなった。代わりに動きのゆっくりした老人とシャッターを下した商店が増え、町は夜はもちろん昼間も静まり返り、すっかり寂しくなってしまった。
色で言えばオレンジ色から無彩色に変わったような・・・。
もっとも人口は平成初期には底を打ち、新しい世代の流入で再び上昇傾向にはあるようだが、かつてのあのエネルギッシュな賑わいをこの街が取り戻すことはもうないだろう。
そして今、私はその生まれ育った町、思い出の町を離れる準備をしている。
賑やかだった昔を懐かしみ、それと比べ今はなんとも寂しくなって…………などと嘆息していたら、図らずもその寂しさを作り出す側に廻っていた。
昔は良かった、などと言い出すのは既に人としてのピークを過ぎた証拠らしい。でも、たまには諸行無常、栄枯盛衰の境地に浸るのもいいだろう。
人生のピークはとっくに過ぎ、あとは「生きてるだけで丸儲け」、人生のアディショナルタイムなのだから。