筆者は54歳の頃から約8年間、年号では平成22(2010)年末から30年(2018)12月まで、家族と離れて両親が住む実家で暮らしていました。
イメージとしては、介護を目的とした単身赴任のようなものです。
今日は、その長いようで短かった8年間の出来事や、その間に感じたことや湧いてきた感情などを書いてみようと思います。
目的は2つ。
ひとつは、そう遠くない将来必ずやって来る自分自身の「被介護期」への準備のため。
もうひとつは、人生の終盤から終局において家族に掛ける負担や面倒を極力少なくするため。
2点はほぼ同じ意味かもしれませんが、そんな視点で読んでいただくと少しは分かりやすいかと思います。
※長くなりましたので4回(1/4 〜 4/4)に分割して掲載します。
人は年齢を重ねるにつれ孤独になっていくものだと思うが、その程度、感じ方は人それぞれだと思う。
父は、母の他界から暫くして外歩きが困難になり、1日のほとんどを家の中で過ごすようになった。
毎朝、筆者が適当に仕度した朝食を一緒に食べ、筆者は仕事に出かけて帰ってくるのは早くても夜8時頃だった。その間父は、一人で宅配弁当の昼食と夕食を済ませ、あとはひたすらテレビ、新聞、読書で過ごしていた。
ケアマネジャーさんから気分転換のため近所のデイケアや日帰り入浴への通所を勧められても、やんわりと、かつ頑なに拒否し続けた。
一般に男性は女性より社交性が劣るとされる。
父はもともと酒が飲めず、だからというわけではないが社交性はゼロに近い人間だった。また晩年は耳が極端に遠くなっていたので、無理して外に出て人と交わるより、多少寂しくても住み慣れた家の中にいる方が落ち着いて心安らかに過ごせたようだ。
とは言え、さすがに入浴と健康チェックは欠かせない。介護保険を利用して訪問入浴と訪問看護に週2~3回来てもらっていた。それでも一日中ほとんど人と会わず誰とも喋らない日の方が多かったはずだ。
年をとるにつれ親しかった友人や気持ちの通じ合う兄弟がこの世を去って行く。次いで配偶者も…………。
世間との接点はだんだん少なくなり、世の中の変化にもついていけず、そのうちに身体の自由も効かなくなる。
晩年は、どれほど寂しい思いを抱えていただろう。どのように孤独と向き合っていたのだろう。
聞いておけばよかったと思うことはたくさんあるが、今となっては墓にマイクは向けられず……、だ。
母親のことも書いておこう。
母は、昭和25年に父と結婚して埼玉県は秩父の山奥の農家から初めて東京に出て来た。その後約60年、父とともに下町荒川区で過ごしたが、心は常に生まれ故郷にある人だった。
尋常小学校を卒業したのち、畑仕事の手伝いをしたり花嫁修行に和裁を習ったりしていたようだが、その当時の、いわば青春期の話は折にふれよく聴かされた。
兄弟姉妹が多く来客も多い大家族で育った楽しさ、青年団という今で言えば地域の若者のサークル活動での淡い思い出などを本当に懐かしそうに語った。
酒はそこそこ飲める血筋だったから、そちらの楽しみもあったかもしれない。
東京に出てきてからも発想の中心はやはり故郷秩父だった。
季節の変わり目や盆暮れ正月など節目の時期には、「今ごろ秩父の方じゃあ・・・」とい科白がよく出た。また、そば打ち、うどん打ちが出来ないと嫁に行けないという土地柄だったので、実家の食卓には麺類がよく上った。
おっと、墓もそうだった。
60代前半には、秩父市内の高台にある公共霊園の一区画を早々と購入していた。親戚筋から紹介があったらしく、父は「俺はどこでもいい」とのスタンスだったこともあって即決できたようだ。
ところが、母が89歳で他界し、納骨と暮石建立の段になって「墓は都内の方が良かねーか」と父が言い出した。
いよいよ現実味を帯びてきて自分自身の故郷が恋しくなったか、あるいはこの期に及んで夫婦の行き違いを思い出したかと危惧したが、よく話を聴けば「別に秩父が嫌なわけじゃねー」と。
ただただ遺されたものたちの墓参りの利便性を慮っての一言と分かったので、姉ともよく相談の上で母の強い望郷の念を尊重し、父も最終的には折れて、件の公共霊園に埋葬した。
今では、秩父の象徴武甲山に見守られ四季折々の花が咲く広々とした陽当たりの良い霊園で二人して眠っている。
墓参りに行くと、地面の下でお互いのふるさと自慢でもし合っているんじゃないかといつも思う。