そのときの出逢いが、人生を根底から変えることがある。
よき出逢いを
今日は、人生における出会いを書いてみます。
長くなります。
高専に入学して間もなくだった。齢16。
まだ緊張も解けぬ教室で、(なに新しいこと始めるかぁ〜)などと殊勝なことを考えつつボーっとしていると、たまたまギター部が勧誘にやって来た。
「練習を見に来るように」と先輩衆。すごく大人に見えた。
ギターを弾いてみたい、音楽をやりたい、そんな前向きな気持ちは全くなかった。
一番初めに来たから行ってみるか………そんなノリだったと思う。
入部を決めたモチベーションもほとんど記憶にない。
運動神経は不要、指導役の先輩が優しそう……
そんな不遜な動機だったかもしれない。
ただ、当時2~4年生が文化祭に向けて練習していたバッハのVnコンチェルトの記憶は鮮明だ。
アマチュアで、学生で、それもギターだけで、これほど高尚で奥深くて心に響く音楽が出来るのか………スゲー。
完璧なKOパンチだった。
以来、先輩の指導と同期からの刺激の中でソロ、合奏ともに練習した。だんだん指が動くようになると面白くなってさらに練習に励んだ。
純粋だった(遠い目)。
そんな多感で思い出多い青春期以降、距離は近づいたり遠ざかったりしたが縁が切れることはなく、ギターは身体に染み込み人格の一部になった。
生まれ育った地元はもちろんのこと、単身赴任した広島でもバンコクでも、ギターは彼の地の方々と縁を結んでくれた。
今でも出勤前のほんのわずかな時間、自室の壁に提げたナイロン弦の愛機に手が伸びる。
しかし、いまだに自分がギターを弾く人間であることを不思議に思うことがある。
本来の人格と楽器を弾いている人格は、別ものと思ったりもする。
仮に共通点があるとすれば、それは「ほどほど」だ。
人の器として、大成はありえないが大きな挫折や失敗はない。
長年弾いてきた楽器の方も、いまだに上手くはならない。
なんでも五〜六分。ほどほどの出来栄え。
これぞ我が人生だろう。
思うところはあるが、決して悪くはない。
これも自分から求めたのではなく、向こうからやって来た。
気がつけば身体に染み込んでいた点でギターと共通する。
きっかけは、一度目の転職。齢21のときだった。
オイルショック後の不況のもと、新卒で就職した会社に希望が持てず公務員試験を受けた。
何件かの面接の後、採用された職場で任されたのが建築設備の設計、積算だった。
一応、汎用性に富むはずの工学系学科の出だったが、空調、衛生、消火など建築物内部の設備は全く未知の世界で、その間口の広さと奥行きに愕然とした。
そもそも建物とはなんぞや、業界用語、専門用語はちんぷんかんぷん、そんなスタートだった。
周囲の同僚たちも五十歩百歩だったが、それなりに仕事をこなしていた。
日々、同世代が頑張っている姿を見るにつけ俄然やる気と負けん気が沸き、夜学の専門学校に通い始めた。
昼間はおっかなびっくり仕事をし、夜は建築と建築設備のイロハを勉強する。そんな一年を過ごした。
そして、その筋の公的資格を取ったりしながら設計、積算、工事監督など一通りの仕事をこなせるようになったのは10年目だった(あくまで自己評価)。
まあ遅咲きにも程があるのだが、上司、同僚、クライアントに恵まれた職業人生の序盤だったとも言える。
学生時代には興味も関心もなく、むしろ避けて通っていた分野の仕事に気がつけばどっぷり首まで浸かっていた。そういうことだ。
それから半世紀近い月日が流れ、件の職場を定年退職して今年で7年目になる。
初仕事から間もなく半世紀近くなる今、嘱託ではあるが引き続き同じ分野の仕事に就ける幸運。
いつの間にやら、世間の需要に対して絶対数の少ない人材になっていた。
学生当時目指した製造業ではなく、いまだに好きな仕事とも言い難いが、これもまた悪くないと思っている。
きっかけは職場の先輩の誘いだった。齢28。
「保母のお姉さんたちと飲み会するけど、あんたも来る?」
新宿の居酒屋。3対3で飲んだ。
背が高く派手めの造りで、何より明るいキャラに惹かれた。
何が良かったのか皆目分からないが、向こうも関心を持ってくれた。
A型♂とB型♀。
組合せの妙で短期間に燃え上がったのかどうか、とにかく一年経たないうちに結婚生活が始まった。
その後二人の子供を設け育て、世間並みにいろいろあった後、37年経った今また二人に戻って静かに暮らしている。
もちろん、長い間一緒にいれば澱は溜まるし互いの悪いところも目につくようにはなる。
でも37年前の決め台詞「一緒に居て欲しい」と「はい」が常に心のどこかにあったから今があると思っている。
価値観に大きな違いがないのは幸いだった。
料理が上手でメチャ旨いのもありがたい。
先輩の声掛けのおかげで、モノクロだった人生は総天然色になった。
これは何より悪くない。掛け値なく幸せなことだ。
最初に断っておくが、いわゆる新興宗教にはまったく興味、関心はない。
勧誘されれば脱兎の如く逃げる方である。
そもそも親がそうだったし親類縁者もほぼ同じポリシーの人ばかりだった。
そんな環境で育ったにもかかわらず齢60を過ぎてから宗教、特に伝統的な仏教に興味が湧いた。
むしろそんな環境で育ったから、学校で教わらなかったから、渇望のようなものに気付くまで時間がかかったのかもしれない。
きっかけは、四国お遍路だった。
ただのスタンプラリーにしては弘法大師にも八十八の寺にも先達の皆さんにも失礼だし、何よりもったいないと思った。
まず本を読んだ。
ひろさちやの分かりやすい宗教観から入って中村元、佐々木閑、小池龍之介、藤本晃、魚川祐司、藤田一照、山下良道…………
興味の向くまま眠気と戦いながらあちこち手を伸ばした。仏教系の本には眠剤が仕込まれていると確信したのもこの頃だ。
その世界を覗けば覗くほど、知らなかったことがどんどん出てくるし、心の隙間にスッと入って来ることもたくさんあって勉強になった。
なにより仏教の世界が広大深遠で一筋縄ではいかないことが分かり、好奇心が満たされるのを感じた。
例を挙げればきりがない。
それらは葬式仏教だけを見ていたなら知り得なかったことだし、その一方で身近にある大乗のお寺や和尚様方に於かれては、宗旨と現実との狭間で悩みの深い事情も垣間見えた。
そんな過程の中で気がつけば興味は源流方面、釈迦の教えに近いと伝わる初期仏教に向かっていた。
開祖のお釈迦さまが説いたこと、目指したものをよく知ろう、できれば体験しようという方向だ。
とは言え、まだまだ巨大な東京ドームを回転ドアの外から少し覗いた程度だ。
大乗をいま一度おさらいしたいし、ブッダの足跡に近づけるのかどうか瞑想も試してみたい。
神社仏閣、昼間の墓地、線香の香りなどは若い頃から好きだった。そして、祈るという概念?行為?にもに抵抗はない。
敬虔ななんとやらを目指すつもりは全くないが、むしろ身の内から自然に湧いて出て来る感情を抑えたり、それに抗ったりすることはないと思うのだ。
人生終盤の手習いとしては分相応だろう。
信心深い老人は、普通にいるものだ。
自分自身そんな年令になったのだと思うし、人生の終盤にそんな興味が湧くのは悪くないと思っている。
さて、方向性は真逆の未来に向く。
だんだん世の中が見えてきて諸々の刺激にも誘惑にも鈍感になりつつある今、最も興味が湧くもの。
それは、ずばり「死」だ。
実は、本稿を書こうと思った一番のモチベーションだ。
そこには、そろそろ鉤括弧付きの「死」と向き会わねばならぬ漠然とした焦りがある。
不治の病に侵されなくても、齢67はそんなお年頃なのだろうか。
これまで身近な人の死には、たくさん出会ってきた。
親、親戚、同僚、友人……
それらの場面で死とは、あくまで他人事だった。
ほとんどの場合第三者でしかなく、居住いを正し礼は尽くすがひたすら傍から見ているだけ。
喪主も2回務めたが、あくまでMCで当事者ではない。
ましてや、ご列席の先輩方から生々しい体験談が聴けるようなものでもない。
出会うまで、これほど分からないことだらけなものも珍らしいではないか。
所詮、意味のない問いではある。
どうせ出会わなければならないのなら、心の準備だけはしておきたい。
自分の意志でそいつとの出会いをコントロールしたいという願望。
そうかと言って自殺や嘱託殺人あたりは考えるだに恐ろしい。
現実味にやや欠ける現時点では、延命治療を拒否する程度のことしか思いつかない。
そのときは「人生が走馬灯のように去来する」と巷間言われる。
スライドショー用の写真でよければ、自分で用意する気は満々だ。
書き足りないような気もしますが長くなりました。
過去を振り返ったり死ぬことを意識するとは、年をとったものです。
一方でそれは、余裕や余力の裏返しでもあるとも思います。
食うに困らない僅かなお金と、ほどほどに健康な身体。
この年齢でその両方があるからどうでもいいことを呟ける。
まさに悪くない人生、幸せな人生と言えるでしょう。
ありがたい。
The end.