父母が相次いで他界して実家が空き家になり、惣領である筆者は現在その整理作業を細々ですが延々と続けています。
昨今は、子ども世代に重くのしかかる「実家の片づけ」が社会問題化しているようですが、今回は実地に整理、処分を進める中で感じる世代、習慣、出自などによる「モノ」に対する価値観の違いを自分の親を題材に考察してみます。
作業が進行形につき多少愚痴が入るかもしれませんが、適当にスルーしていただければ幸いです(汗)。
実は、筆者の実家もご多分に漏れず実父母の存命中からとても二人暮らしとは思えないほど、大量のモノが溢れ返っていました。
まずはそんなリスのように溜め込み上手だった両親の背景事情から。
上記の事情だけでピンとくる人は多いと思いますが、着目すべき点は4点あります。
◆1点目は、高度成長時代に青年期、壮年期を過ごしたということです。
父母の世代は、戦中から終戦直後の物資が欠乏した時代にモノを大切にする教えを受け、また諸々の物資の有難味を身に染みて味わってきました。
高度成長期に入るとその反動もあってモノを増やすこと、モノが増えることに大きな意義と幸福を見出すようになります。家の中に消耗品のストックがないと不安になる傾向もこの世代の特徴です。
◆2点目は地方の農家出身であること。
その出自として、比較的大きな家屋に住む子だくさんの大家族で育ち、自宅を拠点とする農作業の関係から、当面は不要なモノでも「いつかは必要になる」、「そのうち何かに使える」、「捨てるなんてもったいない」とする発想と習慣が自然と身につきました。
すなわちモノは何であれ捨てずに取っておくべきもの、いつか何かに役立てるべきものというライフスタイルが染み着いています。「もったいない主義」と言えるかもしれませんね。
◆3点目は引越しを一回しか経験していないこと。
これは、家の中のモノ一切をほとんど整理する機会がなかったということです。言い換えれば所帯道具や家財その他雑多なモノに関する整理、棚卸し、減量、減容の必要に迫られたことがなく、ある意味恵まれた生活環境を享受してきたと言えます。
◆さらに4点目は、幸か不幸か父親が手先が器用、かつアイデアマンだったことです。
収納が不足した場合は、その腕とアイデアを最大限に駆使して家中の至る所に棚や収納を次から次へと増やしました。加えて持家であることと几帳面さが追い風となり、続々と増える保管場所に二人してキチンキチンとモノを収めるものだからその分量たるや半端ではなく・・・
はい、もうお分りですね。あとは推して知るべし。
家の中に溢れ返るモノモノモノ。持ち主がこの世に残していった大量の物資や消耗品の数々については多くを語りますまい。むしろ、ゴミ屋敷化していないだけ有難い有難い(号泣)。
以上の実例から実家片づけ問題は、「もったいない」を大きな価値観とする世代・人種と、「断捨離」のようなモノに拘らない発想、ライフスタイルの世代・人種との交錯、交わりからくる一種の「軋轢」と整理することができます。その背景からおそらく今後数十年間は日本社会から消えることのない社会問題でしょう。
ちなみに目先の効く人達は、そこにビジネスチャンスを見出しているようですね。不用品の片付け・引き取り・処分、遺品整理、トランクルームやレンタルボックス等々、何れも実家片付け問題の受け皿としての需要は大きいはずです。
さて理屈はさて置き、筆者の実家に話を戻しますと、家屋の最終形が解体撤去であれ別の使途への転用であれ、どちらにしても多すぎるモノ、ありとあらゆるスペースや隙間に詰め込まれストックされた耐久消費財を含む物資の整理と廃棄は必須のことです。
・・・必須なのではありますが、収まっているときは大した分量に見えなくても、一旦取り出すとモノのボリュームが一気に増えるのは世の常、あるあるです。
また、職人だった父親の仕事道具や老後の暇に任せて作った奇想天外な木工作品群、母親が埼玉の山奥から嫁入りして来たときに持参した茶箱というのか行李(こおり)というのか廿楽(つづら)というのか、表現すら迷うような古くて大きな箱、それに所帯を持った当時からの二人分の大量の衣類などを前にすると、若輩の筆者などは、さすがに何とも言えない念やプレッシャーを感じ怯んでしまうのです。
しかしながら、時には目まいすら感じたりしながらも、遺品整理は供養のひとつと固く念じ、その手の専門家への委託を最終手段、拠り所にしながら、貴重品探索や経費などの面からもこの先しばらくは自力で淡々と片づけを続けざるをえません。
翻って筆者自身、自分がこの世を去るまでに荷物や懸案事項を如何に減らすかが大きな課題と自覚するようになりました。
子供に託すべき「モノ」は本当のエッセンスだけ、嵩張らず価値の変わらないものと、嵩張っても価値のあるものだけにしたいと(具体的に書くと下品になるので書きませんが)。
そんなこんなで物心両面での継続的減量を心がけようと塩らしく思いを巡らせる昨今です。
高尚に考察を締めるつもりが、やはり最後は愚痴になってしまいました。おしまい。